2009年07月03日

芦田内閣の下で設立された

1948年(昭和23年)、芦田内閣の下で設立された。これは第二次世界大戦後、それまで日本周辺海域における法秩序の維持にあたってきた日本海軍が掃海部隊を除いて解体され、日本の海上における救難・治安の維持および海上交通を担当する世界初の海上警察・救難総合機関として、運輸省(現国土交通省)外局に設立されたものである。
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1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下、より軍事組織に近い海上警備隊が海上保安庁附属機関として組織されたが、これはまもなく警備隊として分離され、後の海上自衛隊となった。保安庁創設に際して、治安組織の一元化の見地から、海上保安庁も海上公安局に改組されて、保安庁の下に置かれることになっていた(保安庁法及び海上公安局法)。ところが、海上保安庁側の猛反発により結局、保安庁法の海上公安局に関する規定及び海上公安局法は施行されないまま、それに代わる自衛隊法の制定によって廃止となる。そのため、海上保安庁は改組を免れてそのまま存続することとなった。

1948年(昭和23年)5月1日 - 海上保安庁発足。
1950年(昭和25年) - 特別掃海隊が朝鮮半島へ出動。10月17日に、そのうちの1隻が元山沖で機雷に接触して沈没、乗員1名が殉職し、2名が重体、5名が重傷、11名が軽傷を負った。

2009年06月13日

容積濃度、体積濃度

体積濃度(溶液濃度)とは、全体量を体積単位で計測し、算出する濃度で、基本単位がL(リットル)の場合と立方メートルの場合がある。混合されている試料を計測する単位は、質量や物質量であることが多い。化学の場面において、ある濃度の水溶液を調整する場合、試料を正確な量測り取り、メスフラスコなどの器具を用いて正確な体積に希釈し調整することが多く、主な化学薬品なども体積モル濃度で示されるのが普通である。実験操作では主に溶液の体積測定が問題となるため、溶液の体積を基にした濃度方式は便利であり、最もよく使われる濃度単位である。

そのため、体積モル濃度mol/Lを、Mol (あるいはM) と表記し、「モーラー」(またはモル)と発音する場合がある。また、実験室レベルのごく少量の溶液を用いる場合は接頭辞のミリをあわせ(mmol ミリモル)単位を用いることが慣習となっている。Molという濃度単位は国際単位系 (SI) では認められておらず、将来的にはmol/Lに統一されるべきである。ただ、Mという表記は現在でも多くの学術誌で暫定的に使用が容認されており、現状では併用されている。また、計量法では従来使用が認められていた規定度から体積モル濃度に置き換える様に勧告している。

ここでも簡単のため、次の例を用いる。

例、メタノール32gを水で希釈し、100Lとした水溶液。(基本単位はリットルを用いる。)

質量/体積 [編集]
例より、100Lの溶液には32gの試料(メタノール)が混合していることが読み取れる。

上の節と同じように、一般的には単位体積あたりの濃度を示すのが普通である。つまり、基本単位であるLあたりの濃度を示すことである。

全体量を1Lと調整すると、0.32g/Lとなる。

なお、質量/体積濃度では、パーセント濃度が使われることは少ない。
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規定濃度 [編集]
規定濃度は、主に定量分析に用いられる単位体積(1L)に含まれるグラム当量数を表す濃度単位である。グラム当量数は反応物質の反応に要する物質量、酸塩基反応などの化学反応を1mol分の反応を完結させるために必要な物質の質量である。詳しくは化学当量を参照されたい。

質量/体積濃度に類似するが、それぞれの試料の種類によって、グラム当量が異なるため同質量でも、化学種によって規定濃度は異なる。

式では、規定濃度=グラム当量/体積 と表される。

物質量/体積(モル濃度) [編集]
体積モル濃度は上記の通り、最もよく使われる濃度であり、単にモル濃度といえば、この体積モル濃度を指す。

例において、体積モル濃度の求め方を示す。

例では、100Lの試料溶液には32gのメタノールが混合している。32gのメタノールの物質量は分子量から約1molと算出できる。

つまり、100Lの溶液には1molのメタノールが混合しており、1mol/100Lと濃度を示すことができる。

これを単位体積あたりの濃度に調節すると、0.01mol/Lとなり、体積モル濃度が求められる。

式で表すと、M=n/V (M=体積モル濃度、n=物質量、V=体積)である。

このように体積モル濃度は物質量を全体量の体積で除したものである。物質量は溶質の質量から分子量を使って求められるため、質量パーセント濃度などの一般的な濃度単位から体積モル濃度へ変換する場合、密度などから溶質の質量を算出した後、物質量を決定し、体積で割ることで変換できる。

仮に、密度1000g/Lである32%のメタノール水溶液が与えられた場合、1Lの水溶液に含まれるメタノールの質量は密度と質量パーセント濃度から320gと求められる。このときの物質量は分子量から10molと算出でき、それより体積モル濃度を10mol/Lと決定することができる。

式量濃度 [編集]
式量濃度は体積濃度の一つで、単位体積中に含まれる混合物のグラム式量数で定義され分析濃度や全濃度と呼ばれることもある。体積モル濃度に似るが、酸やなどの解離性の化学種や錯体形成反応など、溶液中で物質量が変化する場合ではこのような濃度が用いられる。

式量濃度は含まれる化学種すべての濃度の総和であり、化学種の平衡濃度(溶液中で化学反応が見かけ上起こらなくなった状態の濃度)を解離定数や溶解度定数などの平衡定数から簡単に求めることができる。詳しくは規定度なども参照されたい。

ここでは例として、解離性の化学種(A)32gを水で希釈し、100Lとした水溶液を用いる。なお、この化学種(A)の分子量は32であり、水溶液中で40%解離し、化学種(B)を生じるとする。

この化学種(A)の物質量は1molであり、式量濃度は体積モル濃度と同じように0.01mol/Lと算出できる。 ここで、水溶液中の体積モル濃度を式量濃度から求めることができる。

水中で化学種(A)は40%解離し化学種(B)を生じている。つまり、式量濃度(全濃度)0.01mol/Lの40%が化学種(B)の体積モル濃度である。つまり0.01×0.4=0.004mol/Lと簡単に計算できる。また同じように化学種(A)は60%存在するため、0.006mol/Lと求めることができる。

このように系の中に含まれる物質の式量濃度(全濃度)を求めることは、さらに複雑な解離、錯形成反応を起こす化学種のモル濃度を求める際にも非常に有用である。

モル分率 [編集]
モル分率は、全体量と混合試料ともに物質量を基準とし、算出する単位である。体積などのように温度に依存することがないため、物性の異なる多成分を含んだ系に使われることが多い。混合物の物質量/全体の物質量で表される。このため含まれるすべての物質のモル分率の総和や純物質のモル分率は1である。

ここでは次の例を用いる。

例、メタノール32gを水で希釈し、100gとした水溶液。

この溶液にはメタノールが32g(1mol)含まれる、全体量からの差から求めると、このとき水は68g含まれている。68gの水は分子量から求めると3.8molと算出できる。

つまり、このときこの溶液にはメタノール1molと水3.8mol、あわせて4.8molが含まれている。モル分率は混合物の物質量/全体の物質量であるから、メタノールを混合物とすると1mol/4.8molとおける。ここからモル分率は約0.21と算出できる。同じように、水のモル分率は約0.79となる。

力価(タイター) [編集]
溶液の濃度を表す単位として、力価というものが用いられることとなる。これは化学において主にmmol/Lの単位が主に慣習として用いられることから使用される単位である。

力価の単位は、それらと同じように単位体積あたりの質量であるが、基準となる試薬ととちょうど反応しあうだけの試薬の重量を示す。

簡単のため、次の例を用いる。

例、基準として5mgの水酸化ナトリウム試薬がある。これを塩酸溶液1mlで中和したとする。

このとき、塩酸水溶液1mlには5mgの水酸化ナトリウムを中和する力があると考えることができる。このことから、力価は基準となる水酸化ナトリウム試薬5mgを1mlで中和する塩酸の濃度と考えることができ、塩酸の濃度は水酸化ナトリウム力価5mg/mlと表すことができる。

力価はグラム当量に関係するため、規定度に容易に換算することができる。 二つを表す式を比較すると、力価=mg/ml 規定度=mg/ml×グラム当量 であり、すなわち 力価=規定度×グラム当量 である。

定量分析などにおいては、力価を正確に測定するため、いくつかの基準試薬(シュウ酸など)から何回かの滴定を行い決定する。

その他 [編集]
濃度のうち、体積は溶液の密度が混合比により変化したり、溶液の熱膨張により密度が変化する為、体積は正確な計量には使いにくい指標である。

物体の重さを量る場合、重力を計測した重量を用いる場合が多いので、正確には重量濃度であることが多い。しかし、同じ重力加速度の地点で成分の重量と混合物の重量とを計測するのが通常であるから、重量比と質量比は一致するはずであり、質量濃度(w/w)と重量濃度(w/w)とは等価であるとみなして良い。

一方、定量分析の滴定では試薬量を体積で測る場合が多い為に、全体量は体積とするが成分量は物質量で計った体積モル濃度(mol/L)や試薬のモル当量で計った規定濃度が利用される。前述の様に体積が持つ不確かさを相殺する為に、各測定実験毎に逆滴定で濃度のファクター(補正係数)を決定する必要がある。

2009年06月09日

看護師の専門性資格

より専門的な能力を有し所定の審査を受けた看護師については、専門看護師、認定看護師として資格認定される。(詳細については、それぞれのページを参照のこと)

また平成14年に医療機関の広告規制が緩和され、平成19年4月から看護師の専門性についても広告ができるようになった

1989年の「保健婦助産婦看護婦学校養成所指定規則」の改正までは、看護士(現在で言う男性の看護師)に対しては精神科での勤務を想定した教育カリキュラムが組まれていたが、改正後は男女とも同一の教育カリキュラムとなっている。

昭和23年公布の「保健婦助産婦看護婦法」においても、女子について「看護婦」として規定するとともに、男子である看護人については看護婦に関する規定を準用するとされていた(大正4年施行の看護婦規則でも、この点に関しては同様)。昭和43年法律第84号による改正で男子である看護人について「看護士」または「准看護士」と称することが規定された。

2002年3月からは、法律の題名が「保健師助産師看護師法」と改正されるとともに、男女関わりなく「看護師」または「准看護師」として規定されるように改正された。

2002年3月の上記名称変更に伴い、医療施設にて「看護婦長(婦長と略称)」、「看護士長」などと称されていた職位は、「看護師長(師長と略称)」[5] 、「看護係長」[6]、「看護長」[7][8] などと称されるようになった。
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名称独占 [編集]
2006年の保健師助産師看護師法改正により、業務独占規定に加え、名称独占規定が設けられた(保健師助産師看護師法 第四十二条の三)。

保健師助産師の看護師国家試験合格要件 [編集]
保助看法第31条第2項により保健師及び助産師は(たとえ看護師免許を有しない場合でも)看護師業務を行うことができるとされている。これにより、看護大学の卒業生や保健師または助産師統合カリキュラムを学んだ者が、看護師国家試験に不合格であったにも関わらず、保健師国家試験や助産師国家試験に合格し、看護師業務を実施可能なことは、医療安全上、患者に対する正しい情報提供の面でも問題視された。 これを受けて2006年6月の第164回国会(通常国会)において保健師助産師看護師法が改正され、法律が施行される2007年4月以降に、新たに保健師・助産師の各国家試験の免許を取得する者については、看護師国家試験合格が免許付与の要件となった(保助看法第7条)。

行政処分者の再教育 [編集]
2006年の保健師助産師看護師法改正により、戒告、3年以上の業務停止、免許の取り消しの処分を受けた者、再免許を受けようとする者は、保健師等再教育研修受講が義務付けられた。

日本における看護師数 [編集]
日本国内で平成18年末に就業している看護師数は約81万2千人で平成16年比6.8%、平成14年比15.4%増加し、准看護師数は約38万2千人で平成16年比1.0%、平成14年比2.9%減少している。また男性の占める割合は看護師で4.7%、准看護師で6.1%と増加傾向にある[9][10]。

平成16年現在でのOECD各国との比較では、日本では人口1000人あたり9人の看護職(准看護師を含む)が就業しており、OECD平均の8.6人をやや上回っている[11](但し、国により若干数値が意味する範囲が異なる)が、医療や介護を多く必要とする高齢者の割合がOECD各国と比べても極めて高いことや、比較的高度な医療を提供していることを考慮すると十分とはいえず、実態として「看護師不足」の声が上がっている。

日本国外からの看護師受け入れ [編集]
日本とフィリピンとの自由貿易協定(FTA)経済連携協定(EPA)で、フィリピン共和国国家資格の看護師を日本の医療機関への受け入れの方向で合意された。フィリピン人看護師を受け入れるに当り、日本語が話せる等日本の事情に精通する事を条件にし、また厚生労働省は受け入れ条件の1つとして人数の上限を設けた。調印は2006年9月9日に行われるも、フィリピン側の批准が遅れており、2009年度以降にずれ込む予定。人数枠は2年間で合計1,000人(看護師400人、介護福祉士600人)。

日本とインドネシアとの経済連携協定(EPA)の調印が2007年8月20日に行われ、日本の国家資格の取得のための必要な知識及び技術の習得を目的とした看護師候補者の受け入れ、資格取得後の就労が可能となった。2008年4月17日の衆議院本会議で可決。同年7月に看護師候補者200人、介護士候補者300人が入国する見通し。EPAを活用して外国人労働力を受け入れる初めての事例となる予定。[12]人数枠は2008年度から2年間で合計1,000人(看護師候補者400人、介護福祉士候補者600人)。

看護師の発展に寄与した人物 [編集]
フローレンス・ナイチンゲール - 近代看護の生みの親。彼女の実名、代名詞である「ナイチンゲール」、「白衣の天使」は看護師の代名詞ともなっている。
ヴァージニア・ヘンダーソン - 看護教育の指導者として知られている。
新島八重 - 日露戦争において、日本初の従軍看護婦のリーダーとして活躍し、後に褒章を受けた。

2009年04月25日

ギリシャ独立戦争の開戦当時

1821年にギリシャがオスマン帝国からの独立を宣言してギリシャ独立戦争が勃発すると、「東方問題」は再びヨーロッパの主要な問題となった。そもそも「東方問題」という用語はこの時に作られたものである。1815年以来たびたびロシアがオスマン帝国領内に侵入しようとしていると噂されていたため、ギリシャの独立問題はロシアが画策した陰謀である、あるいはこの機に乗じてロシアがオスマン帝国への侵略を開始するという危惧が各国間に広がった。

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ギリシャ独立戦争の開戦当時、ヨーロッパは ウィーン体制によって安定した協調状態にあった。そこで、オーストリアの外務大臣メッテルニヒとイギリスの外務大臣ロバート・スチュアート・カッスルレー卿は、ロシア皇帝アレクサンドル1世に対して、皇帝自身が主導するウィーン体制の勢力均衡を崩さないため、ギリシャ独立戦争には参戦しないよう訴えた。アレクサンドル1世はこのような状況で去就を決めかね、結局ロシアはギリシャをめぐる「東方問題」に積極的には介入しなかった。

しかし、1825年にアレクサンドルが崩御しニコライ1世が登極すると、ヨーロッパ諸国への配慮をやめて、ギリシャ独立戦争に介入することを決定した。ロシアが介入する態度を見せると、ギリシャがロシアの従属国とならないように、イギリスもすぐにこの問題に介入した。さらに、西ヨーロッパ文明の源であるギリシャの独立に対し、当時西ヨーロッパを風靡していたロマン主義が有利に働き、フランスもギリシャを支援して介入した。オーストリアだけは、ロシアに対する警戒からギリシャへの支援を控えていた。

このような列強の介入に憤慨したオスマン皇帝マフムト2世は、1828年、ロシアに宣戦布告した。オーストリアは事態の進展に驚き、列強国間で反ロシアの同盟を形成しようとしたが、各国の思惑が違い成功しなかった。1829年までにロシア軍はオスマン帝国との戦争を優勢に進めたものの、戦況は長期化の様相を呈した。ロシアはオスマン帝国の解体を意図してオーストリアの参戦を求めたが、ロシアの南下政策を恐れるイギリスの懸念を招き、実現しなかった。このときになってフランスのシャルル10世が列強によるオスマン帝国分割を提案したが、すでに時機を逸していたので、この提案が何らかの成果につながることはなかった。

ロシアは、オスマン帝国の解体は実現できなかったが、1829年にオスマン帝国との間でアドリアノープル条約を締結し、オスマン帝国をますます従属的な立場へ追いやった。この条約によって、ロシアは黒海に沿ったオスマン帝国領土を譲り受け、ダーダネルス海峡での商船の航行権を得たうえ、オスマン帝国内におけるロシア商人の商業特権が強化された。その後1832年のコンスタンティノープル条約でギリシャの独立は確認され、ギリシャ独立戦争は終結した。

2009年04月08日

ゴダイゴ

GODIEGO(ゴダイゴ)は1976年に結成され、人気を集めているバンド。ロックのスタイルの1つ『日本のロック』の草創期のバンドの1つ。

メンバー [編集]
ミッキー吉野(キーボード、ヴォーカル、バンドリーダー)(1976-1985、1999-2000、2006-)
タケカワユキヒデ(ヴォーカル、キーボード)(1976-1985、1999-2000、2006-)
浅野孝已(ギター、ヴォーカル)(1976-1985、1999-2000、2006-)
スティーヴ・フォックス(ベース、ヴォーカル)(1976-1980、1999-2000、2006-)
トミー・スナイダー(ドラムス、ヴォーカル)(1977-1985、1999-2000、2006-)
の5人が主なメンバー。

他/吉沢洋治(ベース、ヴォーカル)(1980-1985)
原田裕臣(ドラムス)(1976)
浅野良治(ドラムス)(1976-1977)
も在籍していた。

来歴 [編集]
1976年、アルバム『GODIEGO (I、Suite;GENESIS/新創世紀)』でデビュー。
1977年、最高傑作といわれるアルバム『DEAD END』を発表。
1978年にテレビ番組『西遊記』のエンディングテーマ「ガンダーラ」、1979年には同主題歌「Monkey Magic」、ユニセフ国際児童年協賛曲「ビューティフル・ネーム」、 映画『銀河鉄道999』主題歌、『西遊記II』エンディングテーマ「ホーリー・アンド・ブライト」をリリースした。「ガンダーラ」と「モンキー・マジック」が7週間にわたり同時にベスト10にランクイン。また、「ビューティフル・ネーム」,「ハピネス」(タケカワのソロ名義),「はるかな旅へ」,「銀河鉄道999」の4曲が同時にベスト20にランクインするなど大ヒットを連発した。なお、この時期には「ガンダーラ」,「モンキー・マジック」,「銀河鉄道999」の3曲で通算9週間2位という珍記録も残した。
人気を博した彼らもスティーヴ・フォックスが宣教師活動のために脱退した1980年春頃から徐々に人気に陰りが出始め、1985年に解散する。当時「インターミッション(活動休止)」と、公式には述べていたが後に「あれは当時の流行で、実質上の解散であった」と、ミッキー吉野が述べている。
その後、ゴダイゴと名のつくバンドは散発的に吉野の手によって結成されたが、解散以降再びソロで活動していたタケカワを欠いた再結成は興行的には成功しなかった。
1999年-2000年、タケカワもメンバーとして参加し、1999年は、3ヶ月限定で再結成。NHK紅白歌合戦にも出場した。翌2000年は、前年のツアーであまり廻ることが出来なかった西日本を中心に限定的な活動を行った。その後もテレビ出演のために単発で数回再結成していた。
ゴダイゴ結成30周年にあたる2006年、奈良・東大寺でオリジナル・メンバーによるコンサートが行われ、これを機に、一時的ではない恒久的な再結成を果たす。マキシシングル2枚とDVD1枚をリリースした。
2007年、3月16日東京芸術劇場で、ゴダイゴを含め総勢80人のミュージシャンによる「2007 TOKYO 新創世紀」を演奏。8月16日には神宮外苑花火大会でライブを行い、神宮球場に集まった観客を魅了した。1曲目から「モンキーマジック」を披露し大歓声を浴びると、タケカワは「気持ちは花火かもしれないけれど、ゴダイゴを楽しんでね」と和みムード。そのまま「ビューティフル ネーム」や「ガンダーラ」、「銀河鉄道999」などヒットナンバー全6曲を熱唱した。2007年以降も新たな楽曲を発売する予定である。
ちなみに、名前の由来は、英語で書くと“GODIEGO”となり、「行って、死んで、行く」つまり七転び八起き、あるいは輪廻転生を思わせることから来ている。また、「GOD」「I」「EGO」と分けて「神のエゴ」すなわち「真実」という意味もある。後醍醐天皇にも掛けているとされる。

ミュージックシーンの評価 [編集]
ゴダイゴはポップなヒットメーカーとして印象深いが、正統派ジャパニーズロックバンドとしても一定の評価を得ている。1977年のアルバム『DEAD END』は当時のアメリカの閉塞感、1979年のアルバム『OUR DECADE』は「1970年代」をそれぞれ主題として作られた、いずれも社会性の高い作品である。もともとミッキー吉野はバークリー音楽大学卒で、ザ・ゴールデン・カップスに所属していたり、浅野孝巳もエム(イエローの前身バンド)などのバンドを経た本格的ミュージシャンである。

ゴダイゴの音楽は、一般的には、代表作を作曲したタケカワ中心に語られる事が多いものの、編曲を担当していたミッキー吉野が支えていた面も強い。興行的にはまったく振るわなかったタケカワ不参加の再結成アルバムも、音楽的には価値があるといわれている。

解散の理由に関してはいくつかうわさがあるが、最も有力な説は、タケカワユキヒデの脱退表明がきっかけで、バンドリーダーであるミッキー吉野が”ゴダイゴの音楽はタケカワユキヒデの声にあわせて作ったので、グループとして維持できない”と判断した結果というものである。 ゴダイゴの音楽性の魅力は、メロディーメーカーとしてのタケカワの才能とミッキーのジャズとロックが融和した音楽の才能がぶつかった結果であり、音の鋭さのミッキーにたいして、コード進行は複雑だが実にポップなタケカワのメロディーの調和こそがゴダイゴの醍醐味である。

CMソンググラフティ [編集]
ゴダイゴは、CMにも多数の名曲を世に送り出している。 代表的な楽曲としては、1976年カネボウの化粧品の宣伝で使用された「僕のサラダガール」、1977年ミラージュボウル(同年12月11日開催)のテーマ曲「ミラージュのテーマ」、全盛期である1979年のサントリービールCM曲「ハピネス」やタケダ・ベンザエースのCM曲「マジック・カプセル」がある。

「僕のサラダガール」はゴダイゴのデビュー曲でもあり、この曲のイメージを作詞者である奈良橋陽子に伝えたところ、外国生活の長かった彼女は当時の日本人が「サラダ」に連想した「清潔・新鮮・お洒落」のイメージを共有できず"頭がサラダになっている女の子”を想像し、大笑いしてしまったという逸話がのこっている。
「ミラージュのテーマ」はNCAAのアメリカンフットボール大会、「ミラージュボウル」のテーマソングである。本大会のスポンサーである三菱自動車が、1977年にミラージュボウルが終わってからも、1980年まで"三菱・ミラージュ"のCMで使用した。このため、本曲を三菱ミラージュの曲と思われがちだが、ミラージュボウルのテーマ曲を転用したというのが正しい(尤も、『ミラージュボウル』という名称自体が『三菱・ミラージュ』からの命名だった)。
「ハピネス」はタケカワユキヒデのデビューアルバム『走り去るロマン』収録の「ぼくらのしあわせ/HAPPINESS」をリ・アレンジした曲である。ゴダイゴのブームで再々発売された『走り去るロマン』に「ハピネス」は収録されたが、アレンジはゴダイゴのものであり、タケカワユキヒデによるオリジナルの物ではない。
「マジック・カプセル」は、ゴダイゴ全盛期に発表された楽曲である。1979年、同名のファースト・ライブ・アルバム『マジック・カプセル/ゴダイゴ・ライヴ』にて発表された。当時劇場公開されたゴダイゴの活動を追ったドキュメンタリータッチの映画『マジック・カプセル』では、この曲の制作過程を見ることが出来る。

ゴダイゴ ホーンズ [編集]
ゴダイゴはホーン(管楽器)セクションを伴っていた時期があり、彼らをゴダイゴ・ホーンズと呼んでいた。最も活躍した時期は1979年-1981年にかけてである。

ゴダイゴのアルバムの中でホーン・セクションが使用されたのはアルバム『新創世紀』の中の「母と子」、それとアルバム『西遊記』の中の「セレブレーション」であるが、JAKE.H.CONCEPTION等の外部のミュージシャンが担当していた。

ホーン・セクションがユニットとして認識されるのは1978年11月の「芸術祭コンサート」で「組曲:威風堂々」を演奏した時である。以来、ホーンセクションは散発的に使用され、ある程度の固定メンバーは存在したが総体としては頻繁にメンバーが変わり、1979年春以降第1次から第五次までを数えた。

ホーン・セクションをライブツアーに同行させるということは当然負担が大きく、1981年秋以降、ゴダイゴはホーンズなしで活動することになる。1985年のファイナルツアー時には、最後の活動としてホーンズも再結成されたが、当然の事ながらゴダイゴの解散後、ホーンズもまた解散した。その後、ホーンズのメンバ?は、散発的にミッキー吉野のアルバム等に参加している。

99年?2000年の期間限定再結成時と、2006年以降のライヴにも、ゴダイゴ・ホーンズは存在しているが、当初のメンバーとは違っている。

ゴダイゴ・ホーンズの主なメンバー
岸本博   (トランペット)    (1979年?81年、85年)
松風鉱一  (サックス、フルート) (1979年?81年、85年)
井口秀夫  (トロンボーン)    (1979年?81年)
永井真   (トランペット)    (1979年)
外山昭彦  (トランペット)    (1999年?2000年)
佐藤春樹  (トロンボーン)    (1999年?2000年)
吉田治   (サックス、フルート) (1999年?2000年、2006年?)
奥村晶   (トランペット)    (2006年?)
池田雅明  (トロンボーン)    (2006年?)

きたみびお 浮草ぐらし ウェッジ ビーピー ツベル タイマー ビヤマハギ フロマ シケイン フリーラジ マスタ わかくさ ハイネッ パラ プロテス ロンネット ソリテー マンス スライド バヌア マート びばい フレアスカ ドトイ ラッシュ ライム ワインバ ナポリタン インゴット リッピン ウェル バター ドグマ とうりゅう スロット モラリ トレジャ フラッシ ヒマワ チャロ ムック テスト パネラー ダース サイト ジャッジ エタイ マッピング 露の契 フェージュ

2009年03月24日

愛知電気鉄道デハ3080形電車

愛知電気鉄道デハ3080形電車(あいちでんきてつどうデハ3080がたでんしゃ)とは、名古屋鉄道(名鉄)の前身の一つとなる愛知電気鉄道(愛電)が、1926年に10両を製造し、名古屋鉄道に引き継がれた車両のことである。電7形とも称する。

なおここでは、同系付随車のサハ2020形(付3形)についても記述する。

愛知電気鉄道は、1910年に尾張から三河地域の振興を図るために設立された鉄道会社で、1913年には現在の常滑線を全通させた後、神宮前から東の建設が開始され、吉田駅(現、豊橋駅)まで到達(開通)後に、全線の高速運転を目的として登場したのがデハ3080形であった。

車両概要 [編集]
日本車輌製造で製造された16m級半鋼製車で、固定クロスシートが装備されるなど、東海道本線の列車に十分対抗できるだけの設備を整えていた。また、同社では初めて集電装置に菱形パンタグラフを使用した車両でもあった。

運用状況・変化 [編集]
予定通り、愛電の特急と急行に投入されて運用を開始した。急行は1時間間隔で運行され、そのうちの1往復を速達列車として特急にした。特急は神宮前駅 - 吉田駅間62.4kmを63分、急行は72分で結んだが、その表定速度はそれぞれ59km/h・52km/hとなり、当時日本最速であった阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)神戸線各駅停車の51km/hを抜いて、日本最速の電車運転となった(その後、1933年に運転を開始した阪和電気鉄道の超特急が、戦前日本最速の81.6km/hを記録した)。

愛電は1935年に名古屋以西・以北の各路線を建設していた名岐鉄道と合併し、ここに現在の名古屋鉄道(名鉄)が発足する。その際に形式番号の整理が行われ、デハ3080形はモ3200形、サハ2020形はク2020形となった。なお、ク2020形はその後電装品が装備され、モ3200形に組み入れられている。また、この系列には1両のみ全鋼製車体のデハ3090形があり、名鉄合併後はモ3250形(初代)となったが1953年にデニ2001へと更新され姿を消している。

戦時中には、混雑緩和のためロングシートに改造されたものの、戦後もしばらくは主力車両として運用されている。しかし1959年に3両が電装品を3700系に譲渡して制御車となりク2300形(初代)2301 - 2303に改称され、1964年には残り7両が同様に電装品を3730系に譲渡してク2320形2321 - 2327と改称された。翌年には瀬戸線へ全車が転属する。

瀬戸線では、ク2300形全車とク2321 - 2324が本線系統の特急に施されたのと同じ白帯塗装と扉間座席の転換クロスシート化(ク2321 - 2323を除く)がなされて特急運用についたこともあったが、1973年にク2325・2327が揖斐線・谷汲線へ転じた後、1978年の直流600Vから1500Vへの昇圧によって完全に余剰となり、ク2300形全車とク2321・2322・2324を合わせた6両が廃車され、ク2323・2326も揖斐線・谷汲線へ転じた。

1997年、モ780形の増備に伴って全車が廃車となった。

その他 [編集]
ク2326は、岐阜600V線区の車両では唯一の高運転台改造車だった。これは電装解除前のモ3208時代にあった事故復旧の際になされたものである。

リーベ フラッ ザイル クチン セドラ タコメ ブラウ レット シスプ じゃくやく ラップワピ デリバリ ツワブキ フリーダム ソート ナビタイア メンマ タルト ガネット スニファー オート スコア えーびー ちょうい たんし ニヒル モップ 国内チュ ティーン ギャレー 幻のユウ ブイゾ シールド パサー タジン ダウンライト コスル ナポリ ヒモパン ジューシー ショー ポニカ いーん リターン パリー トライア バスー 山菜サーチ ヴェリ ローズ

2009年03月08日

ホット・チョコレート(英:Hot chocolate)

ホット・チョコレート(英:Hot chocolate)は、ミルク、チョコレートおよびココアパウダー、砂糖などで主に作られる飲み物で、通常温めて出される。ホット・ココア、チョコレート・ドリンクとも。16世紀にアメリカ大陸からヨーロッパへ持ち込まれ、人気を博した。なお、通常のチョコレートの代わりにホワイトチョコレートを使用するとホワイト・ホット・チョコレートとなる。

日本においてはココアと言うと、豆でなく、ホット・チョコレートのことを指すことが多い。
カカオの実を歴史上最初に使用していたのは、紀元前1500年から400年にかけ、アメリカ大陸最古の文明でありメソアメリカの先住民であるオルメカの人々の可能性が高い。後にマヤ文明の人々が、現在のメキシコ、タバスコ州に位置する、チョンタルパ地域に広がっていた大農場より収穫されたカカオの実を基にした飲み物を飲んでいた。彼らが創り出したその飲み物は、ナワトル語で「ショコラトル(xocolatl)」と呼ばれた。これは苦いという意味の「ショコク(xococ)」と水という意味を表す「アトル(atl)」が組み合わさった言葉である。この言語における「x」は、当時のスペイン語音素で現在の英語の発音「sh(シュ)」と同様の発音である。この飲料は炒ったカカオの実、水、そして少量の香辛料から作られていた。この時代、カカオの実は通貨としても使用されている。

ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の発見の後、クリストファー・コロンブスは新世界からカカオの実を持って帰還した。しかし当時のヨーロッパの人々は、貿易の道具としてもっと役に立つものにしか興味を示さなかった。
陣取り いなか ストメ ワイス さんぼんぎ アント システイン キーホ ワッシャ ネゴシ メモワ パフェ トーキング マラニッ 筆柿 キーノ テレコズ マヨラ プライ ドアミラ リンクサデ ポート エコロジジー エバー ナフタ レポート エス スキトル オーピー マドラサ スパニ パウダー フィル 夏の稲妻 シグサ ツバル タンゼロ ラスバンド アウトカム 黒い塔 ブルンジ ピエール オーバ タリフ ミンス シェルカ スパラ ヌードル モノクロ ミーシー

ところがその後、1517年にエルナン・コルテスがベラクルス近隣のメキシコの海岸へと降り立つ。彼はアステカ王国と国王モクテスマ2世の、その名高い富を一目見ようと当時のアステカの首都、テノチティトランに向かった。 モクテスマ2世はコルテスへ、自身の好物である「ショコラトル」を金のゴブレットに入れて差し出した。「そのショコラトルはバニラと香辛料の風味があり、粘りつく蜂蜜の泡もきちんと少なくして作られており、それが口の中で段々と解け冷たさを取り去った」という。モクテスマ2世はゴブレットに注がれていた自分の「ショコラトル」をハレムに入る前に飲み干したことから、一種の媚薬であったのではという考えもある。

それからコルテスは1528年に、大量のカカオの実とチョコレート飲料を作る機器をガレオン船に積み上げてスペインへと戻った。皇帝カール5世がすぐにこの飲料を採用すると、「チョコレート」はスペインの上流階級の間で流行の飲み物となった。加えて、スペイン王家の人間が他のヨーロッパ人の貴族と結婚する際、カカオは持参金として与えられていた。スペイン人がこの美味な飲料を秘密にしていたため、チョコレート飲料がヨーロッパ中で人気を得るようになるのにはほぼ1世紀を費やした。

飲料用のチョコレートは元来、挽いて粉にしたカカオの実と水、そしてカイエンペッパー、バニラ、ピメントのような香辛料を加えて混ぜた冷たい飲み物だった。後になってクローブやシナモンといった薬味も用いられるようになった。この冷たいチョコレートを人々は大きな容器で飲んでいたため、その芳香を味わうことができた。チョコレートがヨーロッパへ持ち出されるようになる頃には既に、刺激の強い薬味が甘藷糖に取って替わっており、暖かくして出されるようになっていた。

すりつぶしたカカオの実には油分が多く含まれておりそのままではお湯に溶けにくいものだった。1828年に、カカオの実からその油分であるココア・バターを分離してココア・パウダーを生産する最初の機械がオランダで開発された。さらにアルカリを加えることで、今日ではダッチ・プロセス・ココアとして知られている、酸味が少なく飲みやすく加工されたココアを生成することに成功した。その新しい形状のココアは、温かいミルクやお湯と溶け合わせるのが簡単だった。

ホット・チョコレートがイギリスへ紹介された後、夕食後の楽しみとして牛乳が加えられるようになった。最初の「チョコレート・ハウス」は、1657年にロンドンでオープンした。ホット・チョコレートは高価だったために、エリート層に向けた飲料だったと考えられている。18世紀までには「チョコレート・ハウス」という店が喫茶店と同様に大衆的になった。

19世紀半ばの1847年、イギリスのフライ社がココアパウダーと、ココアパウダーを生産するときに生じる副産物であるココア・バターを利用して、初めて食べるチョコレートを考案した。

このように「ホット・チョコレート」はレトロニム(後から付けられた名称)の一つであり、元々は「チョコレート」といえば飲み物を指した。後にイギリス人によって固形の食べる「チョコレート」が発明されて人気となったので、飲み物のチョコレートと食べるチョコレートとを区別するために「ホット・チョコレート」という言葉が創り出されたのである。

アメリカ人はよく「ホット・チョコレート」と「ホット・ココア」という2つの言葉を同じ意味で使用する。しかし、他の国では「ホット・ココア」と「ホット・チョコレート」の間で意味合いに違いが生じる。ホット・ココアはココアパウダー、砂糖、濃縮剤から作られる。一方ホット・チョコレートは、既にココアやココアバターと砂糖が混入されている板チョコレートへ直接お湯や温かいミルク等を注いで作るか、あるいはダーク、セミスウィートまたはビタースウィートのチョコレートを小さく刻んで、砂糖を加えたミルクへ入れかき混ぜて作る。アメリカのホット・ココアパウダーはしばしば、ミルクを使用しなくてもいいように粉末乳などの乳製品が含まれていることがある。近代アメリカでの発想としてマシュマロを加えて飲むというものがあり、一部のホット・ココア食品には小さなマシュマロが付いてくることもある。

イギリスでは「ホット・チョコレート」は温かいミルクと、チョコレート、砂糖、粉末乳が入っているパウダーを混ぜて作る。一方で「ココア」は通常温かいミルクとココア・パウダーだけで作り、その後に砂糖で甘くする飲料を指す。

イタリアでは「チョコラート」が固形のチョコレートを指し、「チョコラータ」がココア(パウダー)から作る飲み物を指す。

ベルギーにあるいくつかのカフェでは、「warme chocolade(ワルム・ショコラー)」か「chocolat chaud(ショコラ・ショー)」を注文すると、沸き立った一杯のミルクとそれに入れて溶かすためのビタースウィートチョコレートのチップが小さな容器に入って出される。この飲み物は通常、イエローケーキやスペキュラス、もしくはベルギーチョコレートと一緒に出される。

今日において、ホット・チョコレートは世界中で飲まれており、ヨーロッパでは特に人気である(ヨーロッパのものはかなり濃厚で、固形のチョコレートから直接作られる)。イタリアのショコラータ・デンサ(cioccolata densa)のようなチョコレートは、同国内のバーやレストランでは至るところにあるほどである。レストランのパティシエやショコラティエの影響により、このヨーロッパのスタイルは、伝統的に冬の飲み物とされ、吹雪やそり滑りのような民族的イメージと結び付けられてきたアメリカの文化にも、徐々に浸透してきている。普通はそのほとんどがココア・パウダー、砂糖、乾燥ミルクを含むパウダー1袋と、お湯または温かいミルクを注いで手早く作り、まだ甘みが薄いのでマシュマロをトッピングする。しかし、ホット・チョコレートはコーヒーや紅茶など他の温かい飲み物とは異なり、通常は年中飲まれていない。

スペインでは、ホット・チョコレートとチュロスは伝統的な朝食である。このスペイン流のホット・チョコレートはどろっとしており、温かいチョコレートの柔らかい塊が入っている。今日マドリードのような都市において、スペイン人は濃いホット・チョコレートにチュロスを浸して食べることがある。

2009年02月20日

30世紀の相対未来では

30世紀の相対未来では、戦艦を含む船は一般に宇宙を移動するものと定義されているため、「宇宙戦艦」や「宇宙船」といった呼称はナンセンスなものとなっている。そのため、「宇宙戦艦」という用語を使うのは現代人の主人公たちとフィッシュチームのみである
ミネア あさひか ストレ マッチ アック 繊細 せいじゅ パワーサプ ランドロ ステイ ヒート メキシコ エグゼ べにあか センリョウ アーバン オーバ ロッキード やっこだこ パターン カピバラ アフガン サーボモ メリー 望郷の月 じゅご リンガ モルデ パトス キャンサド ティン デジタル ネクスト ノーショー コンファー ビオチ クレーション フィーマ カーラジオ バビア ナビノニ やまんば デーゲーム 世界の家 ブービー ドゥク サイダ ジャージー ベンダー フレーター

TERRAでは現代のF1カーに近い形状をした戦艦が一般的だが、これは設計者によって意図されたものではなく、最も効率の良い形を目指した結果(技術の収斂進化)という設定になっている。

TERRAの艦隊には民間のスポンサーがついており、プレイヤーは艦隊にスカウトされ、そこでカスタムされた戦艦に乗ることとなる。

TA2系列艦(タイラント艦隊エスタナトレーヒ分艦隊)
高速艦であるTA-25が敵を攪乱し、打撃戦艦であるTA-29が主戦力として敵を打ち落とす。TA-27はTA-29の近接防御を担当し、TA-25は作戦目的に合わせて多種多様な艦載機によってそれぞれを支援する。というコンセプトの元に開発された各艦であったが、機体スペック、プレイヤーの腕と相まっていい意味で想定された戦術を採っていないようだ。 共通の特徴としてコットンアーマーが装備されている。

なお、起動には多大なる情報エクセルギー(好奇心や冒険心に代表される精神的高揚)を必要とする。そのため、一般の30世紀人に乗りこなす事は出来ず、これはどれだけ訓練されたプレーヤーでも同じ事。そのため「20世紀女子高生の好奇心」を持つ洋子たちがいなければ、理論上は最強でも乗り手がいない、事実上の鉄クズとなったはずの系列である。(エクセルギー感知機構の感受を最大にすればシルヴィーのように天性を持つ訓練されたプレーヤーなら動かす事は出来るが、そうすると今度は艦の制御ができなくなる)

TA-29 ヤマモト・ヨーコ
特一級打撃戦艦(スーパーストライク)。
一般兵装として、副砲SY-32(インパルス砲)、次元転換魚雷、レーザートラム1000基を装備。
特殊兵装として、主砲エヴァブラック、統一場粒子兵器ザッパー、相転移兵器ブラスターを装備。
艦載機はTA-2系汎用の機種で、戦闘攻撃機ライデンを約50機搭載。
塗装色はブルーとホワイトのストライプ。
ダンディライオンとの戦闘で大破したエヴァブラックはMODEL?として改修された。MODEL?の特徴はエヴァブラックキャノンを継続的に発射し続ける、というもので洋子はこれをワインダーと呼ぶ。使用中は放熱が激しくなるため新規に取り付けられた放熱フィンが青白く輝く。
惑星一つ崩壊させることも可能な統一場粒子兵器ザッパー、相転移兵器ブラスターは共に洋子の独断では使用できない。ザッパーはリオン提督の、ブラスターはサザーランド司令の許可が必要となる。
しかし、実際は(特にブラスターにおいて)その強力な威力を恐れた戦争の管理委員会WASCOによってエスタナトレーヒチームおよびTERRA上層部に無断で強力なプログラム・ロックをかけられている。そのため使用には指令の許可があっても、通常はTERRAおよびNESSのWASCO議場における合議により発効されるWASCOの承認プログラムが必要。このため緊急時発動ができなくなり、事実上ブラスターは装備していてもTERRA単独では使用が出来ない兵器となっている。
しかも、この事はよりにもよってそれを必要とする「緊急時」に初めて発覚。エスタナトレーヒチームおよびTERRA上層部を驚愕と混乱に陥れ、洋子たちに大きな危機をもたらす事になる。また、洋子はこのロックを自らの情報エクセルギー過多によって無理矢理吹き飛ばした。
TA-25 ミドー・マドカ
特一級高速戦艦(スーパースプリント)。
一般兵装として、主砲SY-24(インパルス砲)、次元転換魚雷、レーザートラム500基を装備。
特殊兵装として、特殊防御装置ヴェイパーシールド、特殊推進装置として潮汐力ブースター、斥力場ターボを装備。
艦載機はTA-2系汎用の機種で、戦闘攻撃機ライデン(搭載数不明)。
塗装色はエメラルドグリーン。
ヴェイパーシールドは従来のハードシールドと異なり、シールドの内側から攻撃ができるというローソンの発明。しかし消費エネルギーが莫大なため稼働時間は恐ろしく短く、最新鋭のTA2系列艦であっても武装を削らなければならなかった。
ヴェイパーシールドを展開したまま敵艦へ体当たりし、あわせてゼロ距離射撃をするという博打のような必殺技「バレルロール」をもつ。ちなみに洋子が提案、命名している。
TA-27 ハクホーイン・アヤノ・エリザベス
特一級格闘戦艦(スーパーストラグル)。
一般兵装として、主砲SY-32(インパルス砲)、次元転換魚雷、レーザートラム800基を装備。
特殊兵装として、重力アンカー8基を装備。
艦載機はTA-2系汎用の機種で、戦闘攻撃機ライデン(搭載数不明)。
塗装色はワインレッド。
敵艦に定着させた重力アンカーを用いて敵艦に投げ技(!)を行うという常識外れの戦闘艦。綾乃がいて初めて機能する艦であり、ローソンのマッドサイエンティスト振りが遺憾なく発揮されている。
TA-23 カガリヤ・モミジ
特一級強襲空母(スーパーストーム)。
一般兵装として、主砲SY-32(インパルス砲)、次元転換魚雷、レーザートラム1200基を装備。
閉鎖型発着デッキ4層を持ち、300機以上の無人艦載機と自律型の駆逐艇スティクス2隻を搭載。
艦載機はTA-23専用の機種で、戦闘機ヘルファイア、攻撃機バトルタイガー、戦闘攻撃機ファイアーシャーク。
駆逐艇スティクスにも艦載機が十数機、入れ子のように搭載。
塗装色はブラックにゴールドのライン。
艦載機全機を展開しての一点集中攻撃メガクラッシュが必殺技。やはりこれも洋子が提案&命名である。
TA-21
TA2系列艦のテストヘッドとして艦隊司令本部シルフィウムに置かれていたが、シルヴィーによって強奪されNESSで改修を受ける。詳細はハンマーヘッドを。

NESS
NESSのでは魚をモチーフとしたデザインの船が多い。

一般的にはコストパフォーマンスに優れているドラーダをカスタムしたものが多く、エースパイロットになると、スキップジャックやアルバコアといったハイスペックの船に乗れるようになる。

スキップジャック
突撃戦艦
カツオがモチーフ
NESSの純正技術で最高傑作と言われる艦。この艦以降はTA-21の強奪によるTERRA技術の流出によってNESSの艦艇技術は大きく変化していく。
エスパドン
打撃戦艦
メカジキがモチーフ
フーリガーが艦隊司令として昇進し前線に出る機会が減ったため副官であるバーニナーの乗艦であるこの艦も序盤にしか登場していない。
ヘリング級駆逐艦
ソーレル級巡洋艦
エグゾゼ級突撃巡洋艦
大気圏内での使用を想定して作られた艦。

ハンマーヘッド
元TA-21
形状からシュモクザメに見えるために採られた名前だろう。
シルヴイーによってNESSにもたらされたTA2系列艦の試作型で、TA2系列艦に使われている最新技術(コットンアーマー、ヴェイパーシールドなど)がそのまま使われている。但し、重力アンカーはTA-25の半分、艦載機はスティクス無し、ヴェイパーシールドの稼働時間はさらに短く、エヴァブラックキャノンもインパルス砲4門を重ねただけというデッドコピーの塊。
スチールヘッド
ニジマスだが、形状よりはハンマーヘッドになぞらえて命名された模様。
スキップジャック級にTERRAから流出した技術を応用した改造艦。
アルバコア
ビンチョウマグロ
スチールヘッドのような間に合わせではなく最初からTERRA技術を使用して作られた艦で、後のバラクーダ、バラマンディへと繋がる艦。

プロジェクトR

フェイズ1
スティングレイ
エイ
名前の通りの形状で、プロジェクトR最初の艦である。特徴は新型のインパルス砲R4300で、これの4門同時斉射はTA-29のエヴァブラックキャノンを凌ぐ。フーリガーがテストしていたが、ダンディライオン襲撃の際のどさくさにテンツァーとシルヴィーによって強奪され、Noyssに渡ることになる。

イズ2
クロウフィッシュ
プレイヤーの紅鵬院翼からは「マッカチン」と呼ばれている。外見は正にザリガニ形であり、重力アンカーとインパルス砲を搭載した鋏による格闘を得意とする。
アーチャーフィッシュ
高出力のインパルス砲を装備しており、長距離からの狙撃を得意とする。インパルス砲を発射する際にジェネレータに高負荷がかかるので連射はできない。何発か撃つとジェネレータ自体の交換が必要になる。
バタフライフィッシュ
TA-25と同様にヴェイパーシールドを搭載しているが、全体を包むのではなく、移動可能なアームによって任意の一方を半球に包むようにしている。
槍状に成型したヴェイパーシールドを撃ち出す「ファランクス」という武器を持っている。シールド発生器そのものを撃ち出すこの兵器は、普通の宇宙船を何隻か作れるほど高価である。
サンフィッシュ
プレイヤーの木葉からは「まんぼうさん」と呼ばれる。艦載機を搭載することができるブリッジを持つ。

フェイズ3
リヴァイアサン

設定
相対過去・相対未来
ローソンにとっての洋子たちは、20世紀に良く似た世界(相対過去)の人間であり、過去の20世紀とは無関係である。同様に、洋子たちにとってのローソンは、30世紀に良く似た世界(相対未来)の人間であり、未来の30世紀とは無関係である。ただし、アニメ版や漫画版ではこの設定はほとんど無視され、単なるタイムトラベルのように描かれている。
CPS(クロノスプレインシステム)の時間移動
現代側の舞台である、私立東綾瀬高校の倉庫より、CPSを使い時間移動をしている。
このシステムが行う時間移動は、現在から見た過去(または未来)の可能性のいずれかであり、現在の時間に対して独立している。そのためローソンはクロノスを指して「タイムマシンではない」としばしば発言しており、「時間軸」と「事象軸」を二次元にプロットして説明を試みる場面もある。
「現在から見て有り得たかもしれない過去(または未来)」に接続するために、タイムパラドックスのようなことは起こらないとされている。
ドラゴンコミックス版の解説では、「パラレルワールド」に接続するためにタイムパラドックスは起きないとなっている。
言語
TERRA・NESSともに公用語は英語を使用しており、英語圏で育った洋子や綾乃が日常会話に困らない程度には現在の形を保持している。しかし両者ともにそれぞれ特有の訛りや方言がある。
洋子や綾乃など英語の分かるキャラクターは翻訳機を介さずに会話できるが、時々現代と異なる訛りや文法につまずくことがある。
まどかや紅葉など英語の分からない者は翻訳機を使用しており、ペンライト型やヘアバンド型など小型のものが作中に登場している。
公用語のほか、日本語を使う地域も残っている。

小説
富士見ファンタジア文庫

長編
ゲットレディ!
自由落下のクリスマスキャロル
桜月夜のシンデレラ
さいはてのメリーゴーランド
合わせ鏡のラビリンス
時計仕掛けのラビリンス
雲の上のファウンテン
ひとりぼっちのダンディライオン
籠の中のダンディライオン
金色のバニシング
銀のカレイドスコープ
純白のディスティニー

短編集
opt.1 薔薇のストリーム
opt.2 寂しがりやのブロッサム
opt.3 聖夜のユグドシラル
opt.4 宇宙一杯のバレンタイン
opt.5 紅のチャレンジャー
opt.6 渚のスナイパー
opt.7 夏のチェイサー
opt.8 伝説のダイナスティ
opt.9 触発のチェンジリング
opt.10 君たちの知らないいくつかの出来事

2009年02月04日

立花(たちばな)氏は、大友氏の流れを汲む武家

立花(たちばな)氏は、大友氏の流れを汲む武家。同訓の橘氏とは系統上の関係はない。
サイコロ セリクー クイズ ビアンコ ナビ淡竹 チャーイ バッスル グリーン ナルコ スランプ カナメモチ しおで 満月アナタ ジバン フィーバ ジーメン コシア 虹の橋 透明人間 アスキー プラスタ パイプオ ゲスケル 鯉のぼり ガラシ シーリング スイート ハネムーン 北の旅人 ワイファイ スキッド ビンゲン ション マサキ トンキロ レシー サヘル スリット レッシブ ナイス ブローチ フレー リスト ナビメリノ ジャズ フェンス りっさ サード だむら ターゲット

南北朝時代に、大友貞宗の子の大友貞載が筑前国糟屋郡立花城に拠り立花を称したことより始まる。以来大友氏の重臣として重きをなしたが、立花鑑載のとき大友義鎮(宗麟)に背いたため、同じく大友氏支流の戸次鑑連(立花道雪)により攻め滅ぼされ、鑑載の子立花親善の代で断絶した。

立花氏(道雪以前)
立花貞載
立花宗匡
立花親直
立花親政
立花宗勝
立花鑑光
立花鑑載
立花親善

戸次鑑連(立花道雪)と誾千代
大友義鎮は戸次鑑連を立花鑑載・親善にかわって立花城に入れ、立花氏の名跡を継がせた(鑑連はのちに入道して道雪と号す)。鑑連自身は主家である大友家から立花姓の使用を禁じられたため、立花姓を名乗ってはいないが、立花道雪の名で知られる。道雪は男子がなかったため、初め娘の誾千代(ぎんちよ。「ぎん」は門がまえに言)に立花城を譲り、晩年に高橋紹運から統虎を誾千代の婿に迎えて養子とした。統虎改め立花宗茂は斜陽の大友氏を支え島津氏との戦いに活躍し、豊臣秀吉の九州征伐の後、筑後国柳川に13万2000石を与えられた。

立花宗茂
しかし、宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に参加したため所領を没収され流浪したが1604年に徳川氏により取り立てられ、1606年、陸奥国棚倉で1万石を与えられて大名に返り咲いた。その後、大坂の役でも戦功をあげ、1620年、関ヶ原の戦い以降、筑後柳川32万石を支配していた田中氏が絶家したのをきっかけに柳川藩10万9千石を与えられ、旧領柳川に戻った。関ヶ原で改易された武将が再び「大名」として復活できた例は少なく、その中でも旧領に戻れたのは立花宗茂ただ一人である。

江戸時代の立花氏は柳川藩主として明治維新まで続き、維新後は華族に列して伯爵を授けられた。現在の立花家は、柳川市の自邸を改装した料亭・旅館・宴会場「御花」を経営している。

高橋統増(立花直次)
また、立花宗茂の実弟であり実家の高橋家を継いだ高橋統増(直次)は豊臣政権下で1万8000石を領していたが関ヶ原の戦いで兄とともに西軍につき失領し、のちに徳川氏から5000石を与えられた。直次は兄の姓にちなみ立花氏を称するようになり、立花直次の子種次のとき三池藩1万石を与えられて大名に返り咲いた。三池藩立花氏は立花種周のとき外様大名ながら若年寄にのぼったが、その失脚後陸奥国内5000石に転封され、旗本に降格した。のちに5000石を加増されて大名に復帰し、1868年に居所を再び三池に戻した。この家は維新後、子爵を授けられた。

系図
太線は実子。細線は養子。二重線は名跡継承。

鑑載

親善
?
道雪   高橋紹運
│┏━━━┻━━━┓
立花宗茂     立花直次
     ┏━━━┻━━━━━━━━━━━━━━━┓
     忠茂                  種次
      ┣━━━┓               ┃
     鑑虎  茂虎              種長
      ┃   ┃               ┃
     鑑任  茂高              種明
          ┃               ┃
         貞俶              貫長  
          ┣━━━┓           ┃
         貞則  鑑通          長煕
              ┣━━━━━━┓    ┃
             鑑一     鑑寿   種周
              ┃      ┃    ┃
             鑑賢     春俶   種善
              ┣━━━┓  ┃    ┃
             鑑広  鑑備 鑑寛   種温
                          │
                         種恭 
             
           
柳川市
柳川城(蒲池氏、田中氏、立花氏の居城)
三柱神社(立花宗茂、立花道雪、立花誾千代を祀る)
福厳寺(立花道雪の菩提寺)
良清寺(立花誾千代の菩提寺)

立花 鑑寛(たちばな あきとも、1829年7月23日(文政12年6月23日) - 1909年(明治42年)1月24日)は筑後国柳河藩の第12代(最後の)藩主。

第8代藩主・立花鑑寿の次男・立花寿俶の子。母は立花通厚(7代藩主・立花鑑通の三男)の娘。正室は徳川斉匡の娘・純子(松齢院)。側室が多数いる。子に立花鑑良(長男)、立花寛治(次男)、立花寛正(三男)、立花寛篤(四男)、娘(立花守雄室)、娘(細川興生室)、娘(西高辻信稚室)。幼名は淳次郎。位階は従二位、左近将監、侍従、飛騨守、少将。

文政12年(1829年)6月23日、柳河にて生まれる。はじめ立花主税の養子となって次郎と名を改めたが、弘化2年(1845年)に第11代藩主・立花鑑備の養嗣子となった。そして翌年、鑑備の死により同年6月22日に家督を継いで藩主となったのである。嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると深川沿岸の警備を任された。同年7月、ロシア船が長崎に到着すると、今度は長崎の守備を命じられる。その後も上総国沿岸などの守備を担当した。その後は藩政改革を行なう。鑑寛は財政再建と軍備増強を主軸とした藩政改革を行ない、産業奨励のために物産会所を設置する。さらに藩札を大量に発行して領内の商人にこの藩札で産物を買い付けさせたうえで長崎に送って販売し、その交易利潤をもって藩に納めさせる制度をとったのである。軍事においては洋式銃の導入などに努め、行政においても評定所を設けるなど、一定の改革の成功を収めている。第1次・第2次長州征伐にも幕府方として参戦している。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与し、会津若松まで転戦した。明治2年(1869年)には版籍奉還を行なって知藩事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県により柳河を去って東京に移住する。明治42年(1909年)1月24日、81歳で死去した。法号は大仙院殿鑑寛大居士。

立花 鑑備(たちばな あきのぶ、1827年10月11日(文政10年8月21日)- 1846年4月19日(弘化3年3月24日))は、江戸時代後期の大名。筑後国柳河藩の第11代藩主。

第9代藩主・立花鑑賢の次男。第10代藩主・立花鑑広の弟。正室は浅野斉賢の娘・加代子。幼名は竹千代。俣次郎。官位は従四位下、左近将監。

文政10年(1827年)8月21日、柳河にて生まれた。天保4年(1833年)、兄の死により家督を継ぐ。天保13年(1842年)、正室の加代子と離別している。弘化2年(1845年)11月23日、先々代藩主・立花鑑寿の孫にあたる立花鑑寛を養嗣子として迎え、翌年3月24日に柳河にて死去した。家督は鑑寛が継いだ。享年20。法号は常明院叡智紹監大居士。

立花 鑑広(たちばな あきひろ、1823年9月25日(文政6年8月21日)- 1833年4月8日(天保4年2月19日))は、江戸時代後期の大名。筑後国柳河藩の第10代藩主。

第9代藩主・立花鑑賢の長男。幼名は万寿丸。官位はなし。

文政6年(1823年)8月21日、柳河にて生まれる。文政13年(1830年)3月23日に父に嗣子として指名され、直後に父が死去したため、同年8月19日にその後を継いで藩主となった。しかし天保4年(1833年)2月に病に倒れ、2月19日に11歳という幼少で死去した。法号は含章院殿玉英鑑広大居士。後を弟の立花鑑備が継いだ。

立花 鑑賢(たちばな あきかた、1789年8月28日(寛政元年7月8日)- 1830年6月1日(文政13年4月11日))は、江戸時代後期の大名。筑後国柳河藩の第9代藩主。

第7代藩主・立花鑑通の嫡子だった立花鑑一の長男。母は立花茂久の娘。正室は第8代藩主・立花鑑寿の娘。子に立花鑑広(長男)、立花鑑備(次男)、娘(内藤政義正室)、娘(十時惟美室)、娘(小野隆興室)。幼名は友之丞。亀寿。官位は従四位下、左近将監。

寛政元年(1789年)7月8日、柳河にて生まれる。父・鑑一は本来なら祖父・鑑通の後を継いで第8代藩主となるはずだったが、鑑通より先に早世した。その後を幼少の鑑賢が継ぐわけにもいかず、家督は叔父で鑑一の弟・立花鑑寿が継いだ。寛政11年(1799年)9月28日、鑑寿の養嗣子となる。文化5年(1808年)、養父・鑑寿の娘と結婚する。そして鑑寿死後の文政3年(1820年)6月19日、家督を相続して藩主となった。その後は藩政改革に取り組み、藩校である伝習院を創設する。さらに検見法を石見に改め、米札を発行し、さらに郷方仕組を制定する。また、農業の副業奨励、新田開発、有明海沿岸の埋め立てなどにも尽力している。幕府からも鶴岡八幡宮の普請手伝いを請け負っている。

文政13年(1830年)3月23日、長男・鑑広を嗣子として指名し、同年4月11日に江戸で42歳の生涯を閉じた。法号は體仁院殿博愛元長大居士。後を鑑広が継いだ。

2009年01月21日

騎乗か徒立(非騎乗)かにより騎射と歩射

弓射は伝統的に、騎乗か徒立(非騎乗)かにより騎射と歩射に分けられてきた。また日置流誕生以降、歩射技術が様々に発展したが、その中でも江戸時代に隆盛した通し矢(堂射)は独自の発展を遂げた。様々な射法は「五射」(上述)に挙げられている。

騎射

騎射(きしゃ・うまゆみ)とは歩射に対しての用語で、騎乗して行う弓射。武士の表芸とされたことから「弓馬」は武芸一般や戦そのものを指すようになり、「弓馬の家」とは武士の家柄を、弓馬の道とは武士の守るべき道徳を意味した。中世前期まで戦場での主要な戦闘法であったが、南北朝時代頃から弓射の主体は歩兵となり、騎兵も下馬して射るようになったため、騎射戦闘は消滅していった[14]。騎射の訓練としては狩猟が盛んに行われ、また儀式・競技化された流鏑馬、笠懸、犬追物(総称して騎射三物という)も流行した。戦場で馬に騎乗することは身分の高い武士のみに許された特権であり、江戸時代に入っても騎射が弓術の最高位のものとされていた。技術的には歩射射法とかなり異なる。騎射を伝えた流派としては小笠原流、武田流が有名[15]。

歩射

歩射(ぶしゃ・かちゆみ・「ほしゃ」は正式な読みではない)とは騎射に対しての用語で、騎乗せずに地面に立って行う弓射。南北朝時代以降、戦陣において歩射が一般化すると[14]、戦国時代初期には歩射弓術を基礎とする日置流が発生し、矢を遠くへ飛ばす繰矢・尋矢(くりや、遠矢とも)、速射をする指矢(さしや、数矢とも)など様々な技法が発展した(五射参照)。武射系では、膝を着いて弓を引き、的(敵)を射る射術が基本であり、その他にも様々な体勢の技術が伝わる。

堂射とは江戸初期に京都三十三間堂、江戸三十三間堂、東大寺などで盛んに行われた通し矢競技の射術。弓射の分類は伝統的に騎射と歩射の二分類であるが、江戸時代に堂射が隆盛し独自の発展を遂げたので、射法の系統としては堂射を加えた3分類とされることが多い。堂射は高さ・幅に制限のある長い軒下(三十三間堂は高さ約5.5m、幅約2.5m、距離約120m)を射通す競技で、低い弾道で長距離矢を飛ばし、さらに決められた時間内で射通した矢数を競うため、独自の技術的発展を遂げた。江戸時代中期以降堂射ブームは沈静化したものの、堂射用に改良された道具(ゆがけ等)や技術が後の弓術に寄与した面は大きい。日置流尾州竹林派、紀州竹林派の射手が驚異的な記録を残した事で有名。

弓戯
日本の弓射には遊戯的側面をもったものも存在した。朝廷行事の賭弓(のりゆみ)では、的中場所により賞品が支給され、敗者には罰杯を課すなど遊戯的性格を持っていた。鎌倉時代発祥の「草鹿」も「遊射」とされ[16]、厳格な儀式の射とは異なるものであった。江戸時代には賭弓(かけゆみ)は厳しく規正されたが、一部には免許のもと営業する矢場があった。明治以降も料金を取って弓を引かせる店が繁華街を中心に多く存在したが、今日では数えるほどしか存在しない [17]。

また大弓(通常の長さの弓)より小さい弓を用いるものとして、楊弓という吊り的を射る遊びも上流階級を中心に、後には庶民に親しまれた。江戸時代の楊弓場では矢取りのために女を置き、密かに売春させる例もあった。

宮崎県飫肥地方(現日南市)発祥の四半的弓道は、戦国時代に農民が半弓を持って戦闘に参加して勝利に貢献した功により、領主から遊戯用として使用を許されたと伝わるもので、同地で愛好されてきた。近年娯楽スポーツとして各地に普及しつつある。

神事

現在でも各地の神社では「奉射(ぶしゃ)」・「御弓神事」などと称する弓射行事が行われている。多くは単なる競技ではなく、年占的性格を持つ宗教儀礼として行われている[18]。こうした行事は朝廷や幕府の弓射儀礼に由来するとされる。

さらに弓矢は様々な形で祈祷や民間習俗に取り入れられている。
起源(縄文時代?古墳時代)
弓矢の歴史は石器時代にまで遡る。石鏃、簡素な造りの木弓が用いられた。日本では縄文時代草創期(13000年〜10000年前)には既に登場し、狩猟の道具として使用される。漆塗りに装飾を施した弓が狩りとった獲物と共に埋葬されるなど、呪術的・霊的用途に使われた形跡が既に見られる。弥生時代時代に入ると狩猟生活から稲作へと人々の生活が変化、それに伴い土地や水源確保のため領地争いが盛んになり、戦いの場で弓矢も武器として使用される。この時弓矢により強い威力を求めた改良がなされ、長尺、弓幹下側を握る弓となる。古墳時代には魏志倭人伝の記述から既に和弓の原型が見て取れる。

古代(飛鳥時代?平安時代初期)
飛鳥時代、『日本書紀』に「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄杜に看す。乃ち馬的射させたまふ」、他にも「騁射」「馳射」との記述があるなど神事としての騎射の原型も読み取れ、また飛鳥時代末期には文武天皇により『大射禄法』が定められ[2]、展覧されたとの記述もある。『続日本紀』には奈良時代には盛んに騎射が行われていたとの記述がある。室城神社の『矢形餅の神事』[3]などは起源が奈良時代まで遡り、既に弓矢の霊妙な力が信じられていた様子が伺える。古代までにはなんらかの弓術、礼式の形はあったと考えられるが、しかし史料も乏しく史実としての古代の弓射の実体は解っていない。またこの頃から存在していたという流派が伝承などで見られるが、史実としては後世の創作である可能性が高い。従って当時の流派の実在や、その発祥起源も不明である。

中世?近世(平安時代?江戸時代)
この数百年の間に和弓の構造は大きく進化(詳細は和弓#歴史欄参照のこと)、江戸初期には堅帽子ゆがけの発明(ゆがけ項参照のこと)、さらに技術面では「角見」「弓返り」の技術が発明される等、この時期に弓術は現在の弓道に繋がる大きな進歩を遂げる。

平安時代の10世紀頃、武士が登場して以来、騎射・弓術は武士の表芸として弓馬の道とされた。騎射・弓術は実戦武術としての稽古も盛んに行われるなど、戦国中期までは戦での主戦力であった。また、弓矢は邪を祓う力があるとされ、霊器・神器として、精神性の高いものとして扱われていた(現在でも破魔弓として信仰の名残や各地で弓道、流鏑馬神事が行われている)。鎌倉時代には「騎射三物」と言われる、流鏑馬・犬追物・笠懸が武芸の一つとして、また行事ごとにおいて盛んに行われたが、室町時代・安土桃山時代と時代が進むにつれ一時的に衰退する。戦国後期に「弓」が戦場の主戦力から後退するが、依然「弓射」は武士の表芸とされ武士の間での人気も高く、心身鍛練の道として泰平の江戸の世においても弓は引かれ弓術流派、射術は発展していく。江戸時代に入ると流派単位の活動が盛んになる。江戸初期には三十三間堂の軒下(長さ約120m)を射通す「通し矢」が次第に盛んとなり、「天下総一」をかけて各藩腕利きの藩士が藩の威信と己の命を懸けて競い合った。寛文9年(1669年)星野勘左衛門(日置流尾州竹林派)によって総矢数10,242本・通し矢数8,000本、貞享3年(1686年)和佐大八郎(日置流紀州竹林派)によって総矢数13,053本・通し矢数8,133本という大記録が生まれる。江戸中期、徳川吉宗により一時衰退していた流鏑馬が奨励され、以降、復興した流鏑馬が全国の神社等で神事として行われる。
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明治維新?終戦・戦後
明治維新後は幕府の崩壊、身分制度が廃止され武術は武芸としての目的を失う。文明開化、欧化思想の中で武術そのものが『時代遅れ』とされ、弓術もその例に漏れず衰退の一途をたどり、大衆の意識では『弓』と言えば賭け弓等の娯楽・性風俗の弓を指す程までにかつての弓術は影を潜める。その世相の中、一部の弓術家らは各々自宅道場を開く等、根強く弓術の存続に力を注ぎ、やがて武士道の再認識がされるなど次第に庶民の間で武術・武道が見直され初め、明治28年(1895年)当時の武道家有志により大日本武徳会を結成、弓術も奨励され心身鍛錬を目的として学校教育に取り入れられる等普及を図る。大正8年(1919年)に弓術は弓道へと改称、弓道含め各武道の普及は日本の内地に留まらず外地にまで及んだ。ただ、当時の国家主義的な世相を反映して、武道は次第に国家の影響を受けるようになって行く。

武徳会の目的の一つに剣道型・柔道型など技術の体系化があり、弓道もそれに習う形で射法統一が試みられた。昭和9年(1934年)様々な流派を代表する弓道家や武徳会弓道部役員が集まり、武徳会本部で射形統一が話し合われ、喧々囂々の議論の末「弓道要則」を制定した。しかし、流派関係者や文化人からの批判が相次ぎ、新聞紙上でも論争が起きて「鵺的射法」とまで揶揄されるまでに不評であった。武徳会が政府の外郭団体として再出発する際に再度射型改善の声が上がり、昭和19年(1944年)に「弓道教範制定委員会」の手によって「弓道教範」が作成され、、「弓道要則」の射法と、従来の正面・斜面の射法を併せて認めるに至り終戦を迎える。第二次世界大戦後、GHQにより武徳会は解散(昭和21年(1946年))させられ武道全般禁止となるが、時の弓道家の尽力により昭和24年(1949年)日本弓道連盟設立。弓道は『精神修養の道』として復活し、当時を代表する弓道家らにより『射法八節』が定められ、現在に至る。(詳しい経緯やその後は、弓道#歴史を参照のこと。)

流派
小笠原流、 武田流、 日置流、 大和流、および 本多流も参照

日本の弓術は古代より、騎乗して行う弓射・騎射(きしゃ/うまゆみ)、騎乗せず立って行う弓射・歩射(ぶしゃ/かちゆみ。近年では武射との混同を避け「ほしゃ」とも。)に分類されてきた。これに加え、江戸時代に流行した三十三間堂の通し矢・堂射(どうしゃ)も一大分野である。各時代で騎射・歩射・堂射それぞれにあわせた射法が研究されてきた。この基本的な分類は明治期まで一般的であったが、時代が経つにつれて射手の多くからは忘れられていった。「歩射」「騎射」「堂射」の概念を根本に置くと流派の性格を理解しやすい。(ただこれらの分類は射法の違いであって、必ずしも流派の違いに直結するものではない。)小笠原流では歩射と騎射は別物であり、「歩射」「騎射」「礼法」と分けて考えられ免許もそれぞれ別にある。日置流諸派では歩射と堂射の両方を行った系統もあるが、歩射を重んじて敢えて堂射を行わなかった系統もある。

弓術の流派には様々な名称のものが伝わるが、古い流派は実体が不明なものが多く、「流」とは称していても今日的な流派と同様のものではない。『現代弓道講座』では主な流派として尊流、神道流、日本流、鹿島流、太子流、伴流、紀流、秀郷流、逸見流、武田流、日置流、大和流、小笠原流をあげているが、そのうち近世以降に見られる流派は小笠原流、武田流、日置流、大和流である。これらを大別すると、故実を中心とする弓馬故実の流派と、射法を中心とする弓術の流派に分けられる。

なお、現在では弓道を礼射系・武射系と分類しているが、実質的に礼射系は小笠原流、武射系は日置流系に該当する。